「正信偈」について no,3
今回は、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」を取り上げたいと思います。
いろいろな本、先生のお話によりますと、この二句は非常に重要で、この二句の偈文に浄土真宗が収まる、とまで言われるまでとてもとても重要な偈文なのです。ですから、細かく追及していけば、さまざまなことにつながるわけですが、あまり難しくして横道にそれるのもよくないので、一番わかりやすいだろう道を選んでご説明させて頂きますね。
☆まずこの二句には、仏様のお名前が二つあります。わかりますかね?
「無量寿如来」と「不可思議光(如来)」です。如来が省略されているんです。さらにこの二つの仏さまのお名前は阿弥陀如来のことを指します。
阿弥陀とは、インド語の音を漢字に写したもので amitayus/アミターユス=無量寿・amitabha/アミターバ=無量光。
無量寿は、限りのないいのちの意。
無量光は、はかりしれないひかりの意。
☆では、限りのないいのちとは一体どういったことでしょうか。
これは、不老長寿とイメージしてしまいますが、それとは違うわけです。ただいのちが長くても、何もしなくては意味がありません。
私たち人間でも「誰かの世話になると迷惑になるから一人で生きているうちに仏さまのほうにいきたいなぁ」と言われる方も少なくないのではと思います。
しかし、生きている時はなにがしら生きる喜びがあり、その喜びがあるから生きている実感があるわけです。
そう考えますと、私たちが苦悩の底から救われることこそが喜びであり、このはたらきこそ限りのないいのちをもって、ずーーーと私たちにはたらきかけてくださるのです。
ですから、無量寿とは仏さまのはたらきには限りがない、ということであります。
☆次に、「不可思議光」をみてみましょう。
「不可思議」とは、思議すべからず、つまり分別=物事の是非や道理を常識的に判断することをするな、との意であります。
ここで、五つの不可思議を曇鸞大師『浄土論註』に挙げられています。「久遠」寺報にも掲載したことがありますが、
一、衆生多少不可思議 - 一つのことをするにも知らない間にいろんな人と出会い、関わっていく。自分の歩みを支えてくれている、と気づくこと。
一、業力不可思議 - 一番基本的で必然的なこと。例えば、人間が二本足で歩く、蟻が黒い、ウミガメが孵化してすぐ海に戻っていくこと(教えてもらうわけでもないのに)。こういった類のこと。
一、龍力不可思議 - 自然の力のこと。自然の恵み、雨など。
一、禅定力不可思議 - 修行によって自然に身につく徳のこと。偉い僧侶にあると自然に和やかな気分になる、など。
一、仏法力不可思議 - 「人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く」手が合わさらない自分であってもなぜか手を合わしてしまう自分がいるということ。
私たちは、不自然なことに対し、「なんて不思議だ」といいますが、本当はあたり前のことこそ一番不思議なわけです。
で、「不可思議光」とは空間的に十方世界のいかなる所までもくまなく照らして、いかなる私たちをも救おうとされる、仏さまのはたらきの広がりなのですね。
簡単に述べると、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」→私たちを救おうとされるはたらきに時間的な限りがなく、いかなる所までもくまなく照らすはたらきの広がりがある仏さまに「帰命」し、「南無」するのです。
☆それでは「帰命」「南無」とはどういったことでしょうか?
「南無」=「帰命」でして、同じことの意であります。阿弥陀仏が私たちを救おうとされるお心が、私たちを覆い尽くし、「南無阿弥陀仏」という言葉になって私たちに来たって、浄土に至らしめるはたらき、と『教行信証』行巻六字釈というところに述べられているんです。
ですので、簡単に言ってしまっていいのか悪いのかわかりませんが「お任せします」ということです。ズバッと要訳しましたけど。
また「帰命は本願招喚の勅命なり」とあって、仏さまの絶対の命令なのだ、とされています。
おおよそ総合してみますと、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」→「南無阿弥陀仏」の六字のことというのはだいだいお分かりになりますかね。だから、この二句に集約されると言われる方も多いわけです。
阿弥陀仏(私たちを救おうとされるはたらきに時間的な限りがなく、いかなる所までもくまなく照らすはたらきの広がりがある仏さま)にお任せします、ということになるんですね。すべてこれに尽きるんですね。
そういったお言葉を、いつも私たちはお称えして、自分の耳で聞かせて頂いているんです。
重要とされている部分だからこそ、いろんな言葉で説明がされていて、いろいろなパターンで説明させていただくと、逆にわからなくなってしまいます(僕も含め・・・・)のでこのくらいに留めておきます。
「仏さまにすべてお任せします」こんな感じでよいのではないでしょうか。
次回は「宝蔵菩薩因位時 在世自在王仏所 ~」の依経段と呼ばれるところを勉強したいと思います。
それでは、失礼します。
南無阿弥陀仏 高山信雄

☆平成22年1月10日(日)
久遠寺平和公園墓地参詣
午前9時~午後12時まで
寒い日が予想されますが、新年を迎えた喜びを胸に手を合わせましょう。是非皆様お揃いでのご参詣お待ちしております。
☆平成22年1月15日(金)
高田本山専修寺報恩講『お七夜』
会費 5000円 食事券+志含
久遠寺壇信徒参詣募集中。お電話にて受付して居ります。
バス一台を用意して居りますので、ぜひご参加下さいますようお願い申し上げます。
☆平成22年1月19日(火)
午後1時半~午後3時頃まで
『仏説阿弥陀経』に聞く 第34回法話会 最終回
布教使 戸田恵信師
於 久遠寺本堂
『仏説阿弥陀経』に聞く法話会は、総集編を残し、最後の法話会となります。寒い中と予想されますが、是非ご来寺してくださることを、心よりお待ちして居ります。
Category: 「正信偈」解釈
「正信偈」について no,2
それでは、先ほどに続きまして「正信偈」とはまずなんであるか、ということを考えていきます。
普段皆さまがもっておられるお経の本の中に、必ず掲載されているのが「正信偈」であります。
この「正信偈」、実は単一であるのではなく、「顕浄土真実教行証文類」=「教行信証」という親鸞聖人が書かれた代表的書物の中に挙げられているんです。
そこで、よく私たち僧侶が読むもの、みなで読むものを通称として「お経」といいますが、正確にはお経ではないのです。
「正信偈」は、偈文と言うんですね。通常は、伝わればいいんですよ、気にされなくて結構です
じゃ、お経てなにか、と問われますと、それは仏さまの教え、それを悟って伝えられた釈尊の教えを記したものが「お経」となるんですね。
ですので、「お経」というのは私たち真宗門徒では以下のものがはまります。
一、仏説無量寿経(大経)
一、仏説観無量寿経(観経)
一、仏説阿弥陀経(小経)
いわゆる「浄土三部経」といわれる経典です。これは、よくご法事などで私たちが読ませてもらう事がほとんどではないでしょうか。内容については、横道にそれ過ぎて、本道に戻ってこれなくなりそうなので、御無礼させてもらいます

ではいつ頃から、「教行信証」の中にある「正信偈」を皆さまと一緒に読むことになったのでしょうか。
これは、本によりますと、本願寺第八世 蓮如上人(1415-1499)の時代からのようであります。
また、他の本によりますと、本願寺第三世 覚如上人(1271-1351)の時代から読むことはしていたようです。ただ「みんなで読もう!」と定めたのは、蓮如上人とされています。
※ちなみに久遠寺は高田派ですので、本願寺代々門主とは別の専修寺代々門主がおられます。
「正信偈」と一言にいっても、正式には「正信念仏偈」と申します。略されているんですね~。
またまた余談ですが、「文類偈」(高田派でよく読まれる節付「正信偈」)は「念仏正信偈」と言うのです。どっちがどっちかわかりにくくなる時もしばしばです。
「正信」・・・ちゃんと、しっかり、まさに信じる
「念仏」・・・南無阿弥陀仏のこと
「偈」・・・・歌。J-POP・ROCKのような歌ではなく、仏さま。仏法の徳をうたう歌のこと。
この「偈」の説明として、「説願偈総持」と他の偈文(天親菩薩の願生偈)に挙げられています。
普通に解いてみますと、願偈を説きて総持する、と読んでしまうのですが、
親鸞聖人は、願偈総持して説く、と言われたそうです。
「総持」とは、糸をより合わせて集めて束ねる、の意です。つまり、仏法全体を一つに集め束ねて、これを取りこぼさない、ということですね。
また「総持」されるのも、私たちではなく、仏さまです。ですので「偈」というのは、仏さまの願い・本願のこころを顕してくださっています。
それでは、「正信偈」はどのように‘よまれる’のがよいのでしょうか。
「読」というのは、本などの字を一つ一つ読むこと。
「詠」というのは、詩や歌を声を伸ばして詠むこと。
「誦」というのは、内容と同調したリズムや節をつけて誦むこと。そらんじて誦むこと。
「よむ」ということだけでも、これだけの意味が変化してきます。
そして、「正信偈」などは特に「誦む」といわれるそうです。つまり、節をつけて、そらんじて読む、ことと。
これを軸として、ズバッと違う言葉にすると
「いつでも、どこでも、だれでも」
これ、本に書いてあったのですが、ピピッときました

ですが、いきなりのことばすぎますかねぇ。けど、こう捉えてもいいのかなぁと思います。「正信偈」て結構そういう雰囲気ありますよね。
以上の事を踏まえて、「正信念仏偈」を考えてみますと、
南無阿弥陀仏を正信する歌、自分がお念仏を信じるのではなく、仏さまから「念仏を信ぜよ」と教えて下さる歌、もう一つ言えば、念仏の心を明らかにされ、「自分が」という念仏を深く見つめ、「念仏のほかない」と知る歌なのです。
「朝夕のお勤めで、「正信偈」をあげるんですが、ち~とも意味がわかりません。」
そんな話をたまに耳にします。しかし、上のことがすこーしわかるだけで毎日一緒の「正信偈」が少し違って聞こえるかもしれませんよ

次回は、最初の二句「帰命無量寿如来 南無不可思議光」を解説したいと思います。
それでは、失礼します。
南無阿弥陀仏 高山信雄

☆平成21年12月18日(金)
午後1時半~午後3時頃まで
『仏説阿弥陀経』に聞く 第33回法話会
布教使 戸田恵信師
於 久遠寺本堂
今年最後の法話会です。寒い中ですが是非ご来寺してください。お待ちして居ります。
☆平成22年1月15日(金)
高田本山専修寺報恩講『お七夜』
会費 5000円 食事券+志含
久遠寺壇信徒参詣募集中。お電話にて受付して居ります。
バス一台を用意して居りますので、ぜひご参加下さいますようお願い申し上げます。
Category: 「正信偈」解釈
「正信偈」について no,1
今日は一日雨の様子で、一雨ごとに冷たくなっていくんでしょうね。覚悟しなくては

今回より不定期ですが、毎日の朝夕やお月参り、等で親しまれている「正信偈」について勉強していきたいと思います。
以前、法話会のテーマが、「正信偈」をもとに展開して頂く法話でした。(全22回)
しかし、今後また「正信偈」をテーマとして掲げるには、まだまだ時間がかなりあるので、僕自身も文章にさせてもらいながら勉強するということで、解説?お話?していきたいと思います。
しかし、ただ頭の中の正信偈解釈では自分自身心もとないので、以下三冊ほどを中心に、参考にさせてもらいながら少ーしずつ進めていきます。
一、「正信念仏偈講義」宮城顕著
一、「講解 教行信証 教行の巻」星野元豊著
一、「正信偈講話」蜂屋賢喜代著
なぜこのチョイスをしたかというと・・・
宮城先生は、住職お勧めの先生、他に歎異抄なども書かれています。
星野先生は、僕が学生の時、よく参考にさせてもらいました。
蜂屋先生は、僕は存じ上げないのですが、久遠寺書庫にあったので。
こんな理由でよいかわかりませんが、とにかく勉強できれば、という思いのみです。
これだけ真宗門徒の中で親しまれる「正信偈」。ただなんとなく読む、ではもったいなすぎる気がします。
この解説を進める中で、あぁなるほどこういった意味か、へぇこの語の意味はこういうことなのか、など感じて頂ければ幸いです。
これを冒頭挨拶として次の回よりアップしていきます。
それでは、失礼します。
南無阿弥陀仏 高山信雄

☆平成21年12月18日(金)
午後1時半~午後3時頃まで
『仏説阿弥陀経』に聞く 第33回法話会
布教使 戸田恵信師
於 久遠寺本堂
今年最後の法話会です。寒い中ですが是非ご来寺してください。お待ちして居ります。
☆平成22年1月15日(金)
高田本山専修寺報恩講『お七夜』
会費 5000円 食事券+志含
久遠寺壇信徒参詣募集中。お電話にて受付して居ります。
バス一台を用意して居りますので、ぜひご参加下さいますようお願い申し上げます。
Category: 「正信偈」解釈
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