法話会準備しました!
明日は、一カ月ぶりの法話会です。みなさまのご来寺を心よりお待ちしております。
そして、いつものごとく準備をしましたよ。先月、庭師さんが入ってから庭の掃除はかなり楽になり、以前は一時間半~二時間かかっていたのが、いまはものの30分ほどで済みます。
正直、楽チンです

そして、お座敷の軸も毎月のごとく変えました。

今回は、何にしようか迷った挙句、↓です


安田理深師の「高原陸地不生蓮華」。
安田先生は、昭和時代の有名な大谷派の先生です。書庫に本もいっぱいありますので、見たい方はお声をかけて下さいね。
「高原陸地不生蓮華」は親鸞聖人が80歳ちょいくらいの時に書かれた『入出二門偈頌文』にでてきます。
前後を引くと、
「汚泥華者経説言 高原陸地不生蓮 卑湿汚泥生蓮華 此喩凡夫在煩悩 泥中生仏正覚華」
→ 汚泥華というは『経』(維摩経)に説いて言わく、「高原の陸地に蓮を生ぜず、卑湿汚泥に蓮華を生ず」これは凡夫、煩悩の泥の中にありて、仏の正覚の華を生ずるに喩うるなり
と読ませて頂きます。
また似たようなところを引いているのが、『顕浄土真実教行証文類』証巻↓
→「汚泥華」とは『経』(維摩経)に言わく、「高原の陸地には、蓮華を生ぜず。卑湿の汚泥に、いまし蓮華を生ず。」これは、凡夫煩悩の泥の中にありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに喩う。
読んで頂くと、なんとなく意味がわかりますかね?
蓮の表現は、仏さま、また仏さまの教えのたとえであります。
蓮は、泥池のようなところにきれいに咲いてますよね、逆に高原のような場所で蓮を見かけることはまずありません。
この汚泥というのが、私たちの悩みや迷いの世界を表現しています。
そんな場所しか咲かない蓮の花。
そんな場所に生きている私たち。
私たちは、そんな人間、そんな場所で生きているからこそ仏さまの「必ず救ってやるぞ」との教えにあい、「救えなければ私は仏にならない」とまで言わせる所以なのではないでしょうか。
その教えにあうことで「生かされている」ことにやっと気づく私たちであります。
この「高原陸地不生蓮華」というお言葉は、
そんな私たちの教えに実は出会っていることを教えて下さるお言葉と勉強させて頂いています。
昔、小さい頃、書院の座敷にはいつもこのお軸が掛けられていました。
そんなこともあって、結構なじみ深いんです。
小さいながら、「なんて読むの~?」やら「どうゆ~意味なん?」のようなことを聞いていた気がします。
今の僕は、こんな感じで味わっております。
一週間後、変わるかもしれません。
一年後、また違うことをいうかもしれません。
けど、それでいいとも思っています。
僕たちは、不変ではないので。日々体も心も変化し続けています。その瞬間の味わいを大切にしたいと思います。
今は、このように「残せる」ことは、いいことでもあり、後日本気でがっかりするかもしれないですが、なんとかお付き合いくださいね

それでは、再度。
明日の法話会、みなさまのご来寺を心よりお待ちしております。
それでは、失礼します。おやすみなさい

南無阿弥陀仏 高山信雄

Category: 寺仕事
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