墓地に柵がつきました!
先ほど石屋さんからご連絡を頂き、前々から発注していました平和公園久遠寺墓地の防護柵が完成しました



まだ僕自身も見に行っていないので、石屋さんがくださった写真を掲載です

どうでしょうか?
今までこんな場所に柵がなかったのも今から思うと不思議なことですが、お檀家さまのお声掛けにより設置することができました。実際、僕が子供の時もここから落ちそうになったり、降りようとしたりで大変危険な場所なんですね。これで、小さな子供さんとのお墓参りも安心できますね

後日、どうなっているか確認しに行きまーす

平和公園久遠寺墓地にお参りに行かれるお壇家さまも確認してくださいね

それでは、失礼します。
南無阿弥陀仏 高山信雄

Category: 寺仕事
平成22年4月の法語
今日は午後からすごくいい天気なってかえって暑いくらいでしたね



もう4月も終わりですね、4月の法語カレンダーは↓

「釈迦は慈父、弥陀は悲母なり」唯信抄文意
ここでよく考えてみたいのが釈迦と弥陀が父と母ということと思います。ずーっと考えてまして、「お釈迦様と阿弥陀様が親さんかぁ、親ってどういうことかなぁ」みたいなことが頭をぐるぐる、ぐるぐる巡っていたんです

でいろいろ本の助けを求めながら、ピピッときたのが宮城顕著『和讃に学ぶ』に教えて頂きました。おっと、なんだか法話会のテーマによく似てますね

この本には、善導大師の
釈迦弥陀は慈悲の父母
種々に善巧方便し
われらが無上の信心を
発起せしめたまいけり
の解説がされていました。そして、今僕自身が知りたいことは、「釈迦弥陀は慈悲の父母」という点で父母の漢字の成り立ちと、『二河白道』における釈迦弥陀のポジションが解説してあったんです。
どういうことかと申しますと、父とは斧や杖をかたどっていまして、族の長がみんなを指揮し、導くことを表現しています。母は、子を乳で養う姿をかたどりこのような漢字となっています。たしかに父と母とは、漢字の如く「家族を導き、子を養っている」ように感じますね

そして、この父と母の説明の上に、二河白道の例えによって、ひとつの細ーい長ーい道の真ん中で迷っている私たち後ろから「この道を往け!!!迷うな!!心配するな!!!」と勧めるのが、父である釈迦であります。
また、迷っている私たちの道の先には、「この道を来い、私が待っている!!浄土があるんだ!!!」と呼びかけ待ってくださるのが母・阿弥陀様であります。
この情景を見させてもらいますと、釈迦弥陀が父母ということがすこーし理解して頂けるのではないでしょうか?
「二河白道」がなんのことかなぁと思われる方は、ネットで検索してみてください。なんとなくご理解頂けると思います。
実際、みなさまの親様もこのようなスタイルをとられ、自分を育ててくれたのではないでしょうか?
まさに感謝、感謝です。この瞬間気づかせて頂き、また明日には忘れるズルイ私でありますが思い出させてくれる仏法にまた手が合わさることと思います

今日も一日有難う、感謝感謝で南無阿弥陀仏

それでは、失礼します。
南無阿弥陀仏 高山信雄

Category: 法語と名言
法話会が終わりました
今日は、ほんとに雲ひとつないいい天気ですね、けど春にしては寒い日のように感じます


もう日にちが少し経ってしまいましたが、新しいテーマのもと、第一回の法話会が終了しました

今回は、改めて先生の自己紹介から始まり、オジンチェックなるものを皮切りに「生老病死」のお話を頂きながら、「苦あることなし、つまり苦が転じて宝となるんだ」と結論だけ言いましてもわかりにくいかもしれませんが、気になる方はぜひぜひご来寺して頂き、ご聴聞下さいね

そして、高田派でよくご唱和します「不退の位すみやかに~」のご和讃の選定はどのような理由からか、また文類偈もなぜ高田派でよく読まれるのか、さらに専修寺とは、どのような意味か、などこまかな疑問に答えてくださるご法話を頂きました。
真宗入門としました根底に、わかりやすくどんな方でも聞いて頂きたい、との願いの如く、非常に分かりやすく温かいご法話でした

第二回は、サブテーマを『本願』としましてご聴聞させて頂く予定です。一回一回が大切なご縁であり、続きでないと分からないということは決してありませんので、是非第二回からでもご来寺して頂くことを心よりお待ちしております。
第二回の日程は、
5月20日(木)午後一時半~三時頃まで
真宗入門法話会② 『和讃のこころ~ご本願~』
是非、皆様お揃いでのご来寺をお待ちしております

それでは、失礼します。
南無阿弥陀仏 高山信雄

Category: 寺仕事
寺の掲示板 平成22年4月21日掲載
今日は、よく雨が降ってますね。そのせいか、外回り中では車がやけに多い気がしましたよ


お寺の掲示板を更新しました


「その人を憶いてわれは生き その人を忘れてわれは迷う」金子大栄

→金子大栄師のお言葉で、真宗教学の大成者と評されています。金子大栄師は『すべての人の救われる法において、自己も救われ、先ずこの身が救われることを通じて、すべての人の救われる道を証する』と語られた方であります。
法語にある「その人」とは、まさに親鸞聖人のこと指してみえます。その人=親鸞聖人を憶うことによって、教えの言葉のひびきを聞思し続けれるのです。また自身の歩むべき道を教えられ、煩悩一杯の我が身を「すみません」と懺悔した中で、人生を完全燃焼されたお言葉であります。迷っていることが分からない私は聞法のご縁に遇わせて頂き、今ある本当の不思議さを確認せねばなりません。
その人、がわかると自然になるほどっと聞かせて頂ける法語ですね。まさに親鸞聖人の教えを拠所とされたお言葉と思います。実際に寺の掲示板に掲載してあります。近くへ寄られましたら是非寄って下さいね

それでは、失礼します。
南無阿弥陀仏 山信雄

Category: 寺の掲示板
明日は法話会です。
今日はあいにくの雨ですが、ウチの柴犬の狂犬病注射が今日なので雨の中注射してきました


そして、明日は法話会です。新しいテーマ『真宗入門法話会 和讃のこころ~お念仏編~』でのご法話を聴聞させて頂きます。午後一時半からだいたい午後三時過ぎまで久遠寺本堂にて開講しております。もちろんぶっつづけではないので安心してくださいね。ちゃんと休憩の時間もありますので



そしていつも通り、準備をしています


今回は『和讃』がテーマなので、和讃の軸にしてみました


少し見にくいですね・・・・すみません。
『弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり』「正像末法和讃」
と書いてあります。初めの部分に「康元二歳丁巳二月九日夜寅時夢告云」とあるんです。康元2年(1257)2月9日の午前3~5時に夢の告げがあった、ということですね。昔は結構「夢」を大切にしていたんだと思います。僕自身はなかなか夢は覚えていないので、なにか告げられても覚えてないという致命的なこともあり、昔でなくてよかったと一安心しております

和讃の意味としては、「阿弥陀さまの本願を信じなさい。この本願を信じた人はみんな阿弥陀さまのはたらきにより最高のさとりを得るんですよ」という感じですかね。摂取不捨とは、おさめとって捨てず。つまり、この人は救う、この人は救わない、とか全くなしで、全部救ってやるぞ、と僕自身は捉えています。
難しく捉えてしまうと、いろいろと解読しなくてはいけないかもしれませんが、すんなり聞き入れるのも結構いいものだと思います。ただ信じる、これが一番難しい気がしますが、これからも勉強させてもらいます

それでは、失礼します。
南無阿弥陀仏 高山信雄

Category: 寺仕事