平成22年5月の法語
今日は、久々に風もなく非常に気持ちのいい日となりましたね


5月も終盤ということで法語カレンダーもまたひと捲りしなくてはいけなくなりました・・

今月の法語は↓

「この如来 微塵世界にみちみちたまえり」唯信抄文意
先月に続いて「唯信抄文意」からの一節ですね。この法語をひとつずつ考えさせていただきますと、「この如来」と「微塵世界」ということがわかりますとなんとなくの意味がわかるのではないかと思います。
初めに「この如来」とはなんぞや?と考えてみますと、この法語の前半部分には↓
「涅槃をは滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身といふ、法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ。仏性すなはち如来なり」
とあり、この部分の続きに今月の法語がくるわけです。上記の文を分かりやすく書きますと
「涅槃→滅度、無為、安楽、常楽、実相、法身、法性、真如、一如、仏性=如来」とできると思います。如来さまはもちろん阿弥陀如来さまでありますが、わざわざこのような言い回しをしながら阿弥陀如来さまのはたらきを表現してくださいます。一語一語の意味の説明も必要かと思いますが省略させて頂くこととして、このように多くのはたらき・呼び名において表わされることもお伝えしたい大切なことと思います。
次に「微塵世界」を考えてみますと、「微塵」とは僕たちが通常使うときは、「微塵切り」であったり「木端微塵」などかなと、頭に思い浮かべます。微塵切りも細かく切り刻むこと、木端微塵もあとかたもなく細かくなってしまうこと、であります。
そのように使われる「微塵」。この「微塵世界」とはどんな世界か?ということであります。
これは阿弥陀経和讃の一首目に「十方微塵世界の~」とあるのですが、その左訓に「コマカナルチリ」となり、その細かい塵の数ほど広がっている世界と考えれるのかなと思います。左訓とは、親鸞聖人のその語の説明書きと思ってくださって結構ですよ。
話を戻しますと、そのような世界に「みちみちたまえり」ですから、細かな塵の数ほど広がっている世界一つ一つに、さまざまなはたらきをもってして阿弥陀如来さまの救いが隅々までいきわたっているのです。
逆を返しますと、私たち一人一人に阿弥陀さまの救いが行き届いていて、私たちはそのことに気付かせて頂くことができる法語であるということです

ごちゃごちゃと書きましたが、理解して頂けましたでしょうか・・

なんとなく感じて頂けたら幸いです

それでは、失礼します。
南無阿弥陀仏 高山信雄

Category: 法語と名言
寺の掲示板 平成22年5月25日掲載
二日間の長い雨をようやく一休みのようです。この長雨のせいで大変な影響をうけた地域もあるそうです。たかが雨、さえど雨のごとく、軽視しているとえらい目にあってしまいます。自然をコントロールすることは到底できませんね。
被害が出てしまったところは、本当に大変と思いますが、なんとか乗り切っていただきたいものです

寺の掲示板をまたまた更新しました!1日更新を元に戻すべく少しペースアップです


「おろか者と気がつけば 人に教えを聞くこころになる」高光大船

→人間には賢い人と愚かな人、名誉や地位がある人、知識の深い人や広い人、無執着な人、人間にあるまじき行いをする人、多々あるわけです。賢さによって上から下へ教えらえると、反感を抱き、人を傷付け、人間であることも失わせる時もあります。
賢さとは、相手との意見の違いを認めあい、その意見を聞くことであり、相手を屈服させることではありません。意見を互いに尊重することによって、ともに教え合うという平等な対話が出来るのでしょう。私たちは、今まで生きてきた経験から世間の事や自分の事のだいたいのことはわかっているつもりでいます。だからこそ生きておれるのでありますが、先師曰く「本当の事を知らないと、本当でないことを本当とする」と言われるのです。本当の事とは、知らず知らずに人を傷つけ、祖先が生ききってくださったつながりの命、また他者が辛抱して下さっているから今がある、ということに気付くことです。何一つ本当の事が出来ない私であると頭を下げるのでなく、下がる自分の愚業性(おろかさ)に気付かさせて頂くのと同時に、人として本当のあり方を聞かずにはおれない心にさせるのが、仏法の教えなのではないでしょうか。
なんでも分かっているつもりが無明(愚かさ)である、と私は思います。
うんうん。先日の五木寛之さんの講演でも、人間の我執・闇についてお話下さいました。ただこのことに気がつくかつかないかが問題のようです。住職のお話の中でも、「知らず知らずに人を傷つけ・・・」となります。私たちは生きていくうえで、何も悪気なく傷つけてしまっていることも多々あると思います。気づいても尚傷つけることさえあります
。そんな時に、自分はこんな人間なんだ、と気づくことが大切であり、そこで初めて救ってくださる仏様のこころに触れることができるのだと思いますね

かといって、常に反省ばかりもできないのが普通とも思います。ただ今あることに感謝していけたらと思います

それでは、失礼します。
南無阿弥陀仏 高山信雄

Category: 寺の掲示板
伐採されました
雨も降りだすと、なかなかやみません


秋になると落ち葉、春になると新葉がよく久遠寺境内に落ちてました

しかし、ある日突然です。こんなにあった一本の大きなモクの木。

今では全く面影がありません


掃除の際には、いつも大迷惑だった木であります。
自分勝手ですが、なくなるとさみしいものです。今までお隣の木でありましたが、ずーーーーーと隣にい続けてくれた木。これを人間勝手に伐採してしまうのもどうかなぁと。
少し考えさせられます

物事のすべてを人間中心、自分中心にどうしても考えがちであります。しかし、一呼吸おいてから、ほんとにいいのかと違った視点で物事をみつめたい、と願う日でありました

それでは、失礼します。
南無阿弥陀仏 高山信雄

Category: 未分類
息吹
先日、境内の掃除をしていた時のこと。まだ五月中盤にも関わらず、もう夏の準備が始まっていました


蝉の幼虫ですね。8年、土の中で過ごして、成虫になったらたったの一週間の虫生?(人生)です。僕たちはたった一週間ではかわいそうだ、自分70年も80年も生かせてもらうのに・・・・と思うこともしばしばです。
けどセミたちは精いっぱい一週間を生きますし、その一週間の中で、セミとしてすべきことをしてしまうのではないでしょうか。
さて、私たちの長い人生、本当にすべきことをして、大切なことに気づかせてもらっていますか?
自分が、俺が、私が・・・・・「が」が「我」となり我執のかたまりとなっていませんか?
一度、立ち止まって周りをゆっくり見ても時間はたっぷりあると思います。焦らず、のんびり、とらわれず、ありのままに

今、生かしてもらう不思議に手を合わせたいものであります

それでは、失礼します。
南無阿弥陀仏 高山信雄

Category: 未分類
寺の掲示板 平成22年5月15日掲載
今日も一日暑い日ですね


寺の掲示板を更新しました



「よろこぶべきこころをおさえて よころばせざるは煩悩の所為なり」歎異抄

→この標語は、歎異抄第九条の一節であり、唯円房の問いに対しての親鸞聖人のお答えであります。法然上人より教えを頂き、お念仏で救われ心も身も慶ぶべきではあります。しかし、理性ではわかっているつもりでいますが、どうにも納得できず、心がはっきりしないでいます。そこで自分のことも考えてみますと、全てを企画しその結果が、自分中心で自分の都合や自分の思いに縛られている事実があります。その事実は、縁によって起こり、どうすることもできない悩みであります。まさに他の物を犠牲している「生」なのであります。自然界の生き物の生死のごとく、その事実を受け取っていく生活、生と死は私自身の中では一つのものであります。仏さまは、自分中心で生きているから喜べぬと教えて下さいます。頷き合える世界、言葉の通じ合える世界、相手を尊敬し合える世界を求めてしまいますが、自己中心で自分の思いに執着する故に、事実を事実として気づかせてもらえないでいます。しかし、このことがご縁となって、明るく温かい人生を過ごさせてもらえるのではないでしょうか。しかし、自分中心の思いを超えた生死の営みの中で、虚しさや苦しさが、仏様の智慧を賜ることが信心ではないでしょうか。自己の罪業性に気付かさせて頂きましょう。
縁とは、いいことばかりではないのですね。「いいも悪いもみなご縁」自分の身の回りのあるご縁を大切に過ごさせて頂きましょう

それでは、失礼します。
南無阿弥陀仏 高山信雄

Category: 寺の掲示板