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真宗高田派久遠寺ブログ  『シュリハンダカ』

愛知県名古屋市中区にある真宗高田派久遠寺の日常をお伝えします!

 

寺の掲示板 平成22年6月3日 

みなさま、コンニチワ!

毎日が晴れ続きで徐々に暑くなってきましたね。
車の中ももうクーラーつけてますか?僕はなるべく窓を少し開けて運転してます。特に重要な意味はないのですが、早く涼しいのに慣れてしまうとほんとの夏の時に困るかな、とただ思うだけなんですけどね

寺の掲示板を更新しました!朝方、カテゴリをわけたことをご報告しました。これで、住職の考えはまる見えになってしまいますねたまに覗いてみてくださいね



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「われわれはしらなくとも 仏に願いをかけられ 望みをかけられている」曽我量深

住職似顔絵
→仏様に願いをかけられているといってもなかなか実感がわかないのが現実であります。例えば、親は子供に希望を託して名前をつけます。けれども、その願いは心温かく、感動、感謝の出来る人間になってほしいとの願いでありましょう。人は大きくなると、自分の誕生の時の親の願いを忘れてしまいます。自分の思いが通じる時にはいい親であり、子であります。通じ得ない時はいい親でなくなり、子でもなくなります。そのような時に分別の心(煩悩)が起きてしまいます。思い通りにしようとする心が、今まで祖先より続いてきた尊いいのちのつながりそのものを断ち切っているように思います。親が亡くなり、困ったり苦しんだ時に初めて親の名を呼ばずにはおれなかったことを憶いだします。「なんでも聞いてやるぞ、助けてやるぞ」との親の心が、自分を通して親の名を呼ばさせるのではないでしょうか。自分が念ずるところに親の心が本当の願いを言わしめるのでしょう。よって生活に苦労し善いことをしようと思っても、なかなかできないのは私の分別(知識)であります。けれども、長く続いてきたいのちの歴史から私の分別を超えてさせて下さいます。仏さまの願いと望みが、苦悩とともに歩むべき道を示し、その教えが仏教の教えであり、お念仏の教えなのでありましょう。立派な教えに遇っても気がない時はなかなか聞くことができませんが、人生の歩みの中に、ふっとした出遇いによって、覚者の願いが聞こえてくるのではないでしょうか。生物多様性と今日いわれるように、ようやく自然の声なき願いに耳を傾けるべき時なのでありましょう。


思い通りのしようと思う心、グサッときますねなんでも真面目にやっているつもりでも、どこか自分の想定内で思い通りに物事を動かしていこう、とこころの奥底では思っている気がします。これを拭いさることはできないけど、気付くことはできますよね。住職のいうところ、困ったとき苦しんだとき、初めてそのご縁に出遇わせてもらい、本当の願いに気付かせて頂く、ということなのではないでしょうか。
一呼吸し仏前に手を合わせたとき、背伸びした自分ではなく‘ありのまま’の自分を見つめたいものであります。


それでは、失礼します。

南無阿弥陀仏 高山信雄

Category: 寺の掲示板

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