寺の掲示板 平成22年8月5日掲載
早朝に雨が降ったせいで蒸し暑い日となってしまいましたね


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「家庭そのものがめざめていく道場なのである」 足利浄圓

→「家庭」の語源を尋ねてみますと、まず「家」の字は「宀」に「豕」とで構成されています。「宀」とは人の住居を示し、「豕」は豚の肉は人間の常食なれば、と中国で言われています。ですから「宀」と「豕」を合わせて人の住むところの意味を指すのですね。次の字、「庭」は「广」は屋根がないところを「延」とし、屋根ある処を「庭」と言うそうです。
まとめてみますと、人が集まり、暮らしを共にするところが家庭であり、一つ間違えば「豕」の住む処となり、言い換えるならば一人一人が勝手に過ごせば汚れた場所となる訳です。
「親」という字は、子供たちが立派に「立」つに「木」になるまで見守ってくれるのが「親」の語源であります。子供があって、初めて親という名告りができるわけであります。
思い出せば私の子供の頃は、子供一人一人に責任分担があり、一人は風呂の水を井戸で汲み、一人は母親の台所を手伝い、と互いに助け合い、親の役割、子供の役割を果たしていかなければ生活することができませんでした。しかし、その生活の中で人間の分限を知り、つながりの中の自分を覚認し、和を以って接する事ができました。なので、一人が苦しめば家族全員が痛みを感じ、一人が喜べばみんな一緒に喜びを分かち合えました。
今振り返ってみると、人は各々の違いを認め合う家庭、言葉の通じ合える家庭=人間形成の道場であったように感じます。
まず家庭そのものが社会に出ていくための修行道場であるべきであろう、と感じるこの頃です。
つながりといえば、ここ最近のニュースは高齢者の所在不明の記事ばかりですね。いろんな事情等あるとはおもうのですが、所在がわからないということが想像できないでいます。正直さびしい気持ちでいっぱいになります。
ニュースの言葉を使えば、孤独、孤老、孤育て・・・なんだか切ない言葉ばかり造語されていく毎日です。何とか良いも悪いも共有してこその家族のような気がします。
つながりを大切に、もちろん今生きている私たちだけでなく今までつないでくださった方々もお忘れなく。
そう思うと自然に手が合わさるのではないでしょうか?
それでは、失礼します。
南無阿弥陀仏 高山信雄

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