平成22年9月の法語
夏に比べるとコンスタントに雨が降るようになりましたね。有難いような面倒なような・・自分主体ですと普通のことすらいいとか悪いとか判断してしまいます。さびしい心です

月末になりまして、恒例の法語カレンダー更新です。
今月は↓

「弥陀の願力は生死大海の おおきなるふねいかだなり」
ふむふむ、直訳してしまいますと、阿弥陀様のはたらきは、生死の中での悩み多き海を渡して下さる大きくて安心な船なんです。といったところですかね。
親鸞聖人は、『海』や『船』といった表現を結構されています。僕自身がいつもお勤めさせて頂きながら、コレだっ!と思うのは
「小慈小悲もなきみにて 有情利益はおもふべき 如来の願船いまさずば 苦海をいかでかわたるべき」
や
「生死の苦海ほとりなし ひさしくしずめるわれらをば 弥陀の悲願のふねのみぞ のせてかならずわたしける」
といった和讃に心が納得します。一首目は、我が身を省みながら救われている我が身、そこでもしこの弥陀の船がなかったらどうなっていたことかとのお気持ちが察しれます。
二首目は、完全に安心して任せてある我が心が窺えます。
ですので、差し詰め弥陀の船とは絶対どんなことがあっても転覆や故障のしない、そしてちゃんと行先に連れて行って下さる船なんですね。船は、乗ってさえしまえば、怪我をしていようが病気をしていようが悩みを持っていようがどんな状態の人も乗れるわけです。だから『船』という表現をされたのかな、と思います。
こころも安心して送り届けてくださる豪華客船、このチケットは私たちは持っているにも関わらず全く見えていない、持っていることに気付いておりません。なのに、手漕ぎボートや泳いで行った方が近道なのでは、と考える方もおられるかもしれません。しかし、お念仏をお称えし、我が身が内省できたとき、ふとポケットにこの弥陀の豪華客船のチケットに気付くのではないでしょうか。
日々のお念仏で、鏡のように我が身を映してみませんか?
それでは、失礼します。
南無阿弥陀仏 高山信雄

Category: 法語と名言
スッキリ中
なんだか喉がガサついてしまいました。やばいので早めに対策したいと思います

ただいま報恩講に向け、境内の木々を剪定中です。春から夏にかけて伸びに伸びた新芽をきれいに揃えてもらっています。この剪定が終わると外掃除もかなりウェイトが軽くなりますし、なんだか境内の見通しがよくて気分が盛り上がってくるんですね。

今日明日とお寺で通夜葬儀がお勤めされるので、お手伝いはできないのですがまた手が空いたら手伝んですよ。
昔から久遠寺は、庭師さん一手に任せず、トラックに葉を載せたり、掃いたりするんです。先代からの伝統?なのです。
確か去年のブログにアップしたような・・・・まぁ今年は今年でちゃんときれいにしますね。
きれいかどうかは報恩講の際に、チェックしてくださいね

それでは、失礼します。
南無阿弥陀仏 高山信雄

Category: 寺仕事
衣替え
毎度毎度ですが、もうすぐ十月。夏の景色から秋・冬に向けて衣替えをちゃんとしなくてはなりません。
お寺でもちゃくちゃくと進めております。
まず一番手っ取り早い簾戸→襖へ変更しました。

なかなか大きくて大変なんです、意外に

ただ襖を入れ替えただけで、ちょっとした冬モードになった気がします。あれだけ暑かった夏です、冬はどうなることやら・・・」

次は、夏座布団→冬座布団ですね。また後日ばっちりやっときまーす

それでは、失礼します。
南無阿弥陀仏 高山信雄

Category: 寺仕事
第30号『久遠』発刊
朝のうちは雨ばかりでしたが、昼過ぎから晴れてきましたね。やっぱり僕自身は雨より晴れが気分がいいですね。
ようやく寺報が出来上がりましたので、またホームページには後日アップしますね。

年4回発刊を目指して何とか30号までたどり着きました。ぜひぜひ、一読くださればと思います。前号はあまりにも挨拶文が長く字が小さいのでは?とご指示を頂いたので、できるだけスペース。字数を抑えましたがまだまだ小さいです。なんとか読んでく出さればと思います。
それでは、失礼します。
南無阿弥陀仏 高山信雄

Category: 寺仕事
寺の掲示板 平成22年9月24日
寺の掲示板も懲りずに更新中です。本来なら自己体験から書くことができたらと思いますが、まだまだ未熟でありますので一向に読み手のサイドであります。住職の解釈のようなこともまだまだできず・・・頑張らなきゃいかんですね


「私どもはまさに仏様によって人間とは何かを問われているように思います」高史明

→仏様に問われているということは、今自分が人と人とのつながり、他の生き物との関係が自分の力で生きているのではなく、他に迷惑をかけずには生きられないと気付かせて頂くことです。そして自分勝手、自分の思いで生きているのではないんだぞ、と覚者からの問いかけであります。まさにそれを知った時、感謝感動を感ぜずにはおれないのではないでしょうか。
高史明さんは、ある中学生のお子さんが自殺をされたことに対して、その親さんが子供に大きな要求をしたことは大きな間違いであったと言われ、次のようなことを挙げておられます。
一、 中学生になったら自分の行為に対して責任をとりなさい。
二、 他人に迷惑をかけないならば、お父さんは一切君に干渉しないことにする
人は他の人に迷惑をかけ助けを頂いてきた。それは人間だけではない多くの生き物の助けを頂いている。それをしっかり知ってほしい。それこそが自分のことを自分で責任をとることの始まりになると先生は『歎異抄』の教えによって今ならこういえると仰っておられます。親鸞聖人や先祖や他の生物の恩を知ることによって、常に自分で生きているつもりの私ではなく、いまこの不思議ないのちを生きていることはどういうことなのか、いつも問われていることでありましょう。人間存在を問われて生きていることに気付く時、我が身のつたなさ、弱さ、高慢さを知らされますのでありましょう。
迷惑をかけたくない、そう言われる方は少なくないと思います。しかし、住職の言葉を読ませて頂いても迷惑をかけず生きていくことは不可能なのですよね?なにがしら、他人様のお世話になっている。これが一番気付くべきことで、一番見逃しやすいことでもあると思います。一度、自分からの着眼点を離れて、他人様目線で物事を見させていただくとより「自分」の姿がぼんやり見えてくるかもしれませんね

それでは失礼します。
南無阿弥陀仏 高山信雄

Category: 寺の掲示板