平成26年5月の法語

《寺報44号「久遠」~当寺住職のおあじわい~》から
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山口県六連島に住んでいたお軽さんのお言葉であります。
彼女は気性が激しく、結婚しても夫との関係はおもわしくなく、
自分自身の存在を認めてもらえない苦悩の人生でありました。
教えを聞いても自分自身の気休めであり、心の安心は得られなかったそうです。
そんなある時、病気にかかりました。
そこで、いかに自分の思いが中心で、
自分の都合でしか教えを聞いていなかったと目覚めたそうです。
自分の思いが死んで他との関係は、私の為の願いであったと聞こえる。
と同時に、
慚愧の念を抱き、私を呼び覚ます声を聞かれたのでありましょう。
当寺住職 髙山元智
いつ変わりなく我が身に届いている「是非に来い!」とのよびごえが
我が身の都合で聞こえたり、聞こえなかったり・・・・・
こんな自分だったか、と気付かせて頂きながら唯一安心のおこえ、
そして願いを日頃からかけられている私達です。
そんな私ができること、
お答えするには「なまんだぶつ」だけですね(^人^)
お称えしましょう、なまんだぶつ(-人-)
南无阿弥陀仏
Category: 法語と名言
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