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真宗高田派久遠寺ブログ  『シュリハンダカ』

愛知県名古屋市中区にある真宗高田派久遠寺の日常をお伝えします!

 

おじいさんと遇う時 

最近、法話をする為にいろいろ自分が歩んできた道を再チェックすることが多くなりました。
その際、いつも出てくるのがおじいちゃん。
先代住職であります。
そんな先代との思いやおかげさまを簡単にざっと書いてきました。

私がまだ中学生、高校生の頃のことです。

いつも通り、夕方6時頃、母親から「ご飯出来たからそろそろ台所へ来なさいよ」と呼ばれるものですから、台所へ行く。昔の台所、今思い出すととても寒いところでした。床は板の間で、板をはずせば収納にできるようになっているのですが、見えるのは土。一枚板がわたっているだけなんですね。そこに床の間机と言いますか、かなり古びた机をおじいさん、おばあちゃん、おとうさん、おかあさん、姉二人と私の7人の家族で囲むんです。当然キュンキュンなのですが、ここしか食べるところがないのでそそくさと食事をするのですが、その座る席は決まっていて、一番の上座がおじいさん、第二席がお父さん=今の住職であります。上座の向い座におばあちゃん、母親は一番給仕がしやすいところに座るんです。残る席は、お父さんの横。おばあちゃんの横。おかあさんの横であります。姉二人は当然のごとくお父さんの横、おかあさんの横に座りますので、私はおばあちゃんの横で食べておりました。その席の向いには、おじいさん。。。。
長男であったということもあるのだとは思うのですけれども、おじいさんの視界にもろに入るんです、私が。
御飯での集合がかかり、それぞれの前に給仕される。
母のご飯は美味しくってですね、「あっ今日はカレーだ、やったーお代わり何回しようかな」とか思っていたのを思い出しますが、その思いを吹き飛ばすかのように始まるんです、家族みんながお母さんが作ったごはんを食べようとしている最中。

「のぶ!南無阿弥陀仏がわかるか!!阿弥陀さんが南無してくれているんだぞ!!!」

もう何回言われた事か。聞き飽きた、と言ったら怒られますが、このタイミングでのおじいさんのお説教は家族の中では「あるある」なことだったんですね。
こんなに優しい言い方ではなく、すごい怖かった・・・剣幕なんですね・・・・・なぜ怒られるのか当時はまったく意味がわかりませんでした。
けれども、今こうしてお説教するために勉強したり、仏様の教えが知りたい、と思ってから、ようやくわかってきたんです。おじいちゃんは、本当に嬉しいこと、自分が安心できたことを孫に伝えたかったんだな、と。だからこそ、本人は熱弁していたのですね。
真剣に真面目に愚直におじいちゃんの念仏と向き合ってきた結果のあらわれだったのかな、て今は思えるようになってきました。
死んだら仏、そんな悪い言葉ではないのですけれも、勉強すればするほど、おじいちゃんのおかげさまをかんじるんですね。どこで感じるか知りたいですか?といっても言ってしまいますが(笑)
いろいろな本をやっぱり読みます、自分で選んでいいな、と思った本、住職から勧められた本、でもそれだけではやっぱりわからなくて、寺にある約8畳の部屋に壁中本棚ばかりの書庫、いわゆるおじいちゃんの蔵書ばかりあるところがあるんです。そこへ行って私が調べたい本を手に取ってパラパラとめくって行くと・・・・
「ここだ!!!」と思ったところに、赤線が引いてある。
本当に驚きでした、なぜここに赤線を引くのだろう、おじいちゃんこの部分を直接私に教えたかったのかな、と。それが一回ばかりではなく何冊も何冊もそういう状態。
もう嬉しくて涙が出てきました、こんなに思っていてくれたのか、て。きっとおじいちゃん自身は、その時問題にしていたことを線引きしていただけに違いないだろうけれども、私自身は僧侶の模範としておじいちゃんがあり、その背中を知らない間に追っていたと思うんです。だからそう感じるのかもしれませんし、これこそ縁であり、「おかげさま」だと思うんですね。
ですから、僧侶の必携として法話をしなくては、と言う気持ちから、おじいちゃんに会いにいくような感じで今は勉強できる、嬉しすぎるおかげさま。
自分がたるんでるな、と思えば、生前、録音していた生声の法話を聞き、一喝され(笑)。
わからないな、と先生に聞くように本を開けば、本に書いてある赤線で教えが導かれる。
おじいちゃんは僧侶としての生活にも徹底した人でしたので、朝も早く起きるし、境内掃除、本堂掃除、あらゆるところに眼が行き届いて法耕人でした。小さいながら、その背中をみて一緒に手伝ってきたからこそ、おじいちゃんのお蔭さまに触れることができ、今では嬉しく思う限りです。生前はきつかったですけどね。

でもこの反省から生まれる、すみません。
だからこそ芽生える、ありがとう。
そして、おかげさまの生活が初めてスタートが切れるのではないかと思うんです。
この3つ。
すみません、ありがとう、おかげさま。
この3つこそ、お念仏のこころと思っています。
こんな私を救って下さって、すみません。
慚愧のこころであります。
こんな私にまで救いの手を差し伸べて下さり、有難うございます。
仏徳讃嘆。
そして、このお蔭で今を往かせて頂いていることに気付かせていただきました。
報恩感謝。

慚愧、佛徳讃嘆、報恩感謝。
この3つこそ、お念仏のこころ。そしてこの心に気付いたきっかけ、お念仏に出遇わせてくれたのは、おじいさんでありました。
そんなおじいさん、聖人や仏様のお約束通りなら、今はお浄土にみえるはず。
そのおじいさんがいるお浄土なら、おじいさんは信じることはできる。そのおじいさんが信じた人がいる。その信じた人達をずっと遡れば、親鸞聖人に行きつくはず。
そしてその親鸞聖人も、法然さんにお任せしたわけです。
ここでつながるお念仏のこころ。
今私たちがお称えするお念仏こそ、仏様の御教えにつながる大切なご法縁。


南無阿弥陀仏
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Category: 寺仕事

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