寺の掲示板 平成22年3月25日掲載
もう小学生の春休みが始まったようで、今日から姪たちが泊まるようです



寺の掲示板を更新しました。今回は親鸞聖人の著書「一念多念文意」から引用させて頂いております。

今回、住職に「この法語を掲載するね」と伝えてから早2日。いつもは当日にすぐ返答してくれる住職でありますが、頭を抱えながら「なかなか難しんだぞ、なるべく理解してもらえるように伝えるのはっ!」と今回は大変だったようです

それでは、当寺住職のご説明を聞かせて頂きましょう


→真宗の教えは「聞名」「聞法」と云うが如く、仏の名告りを聞く、また人間の理性を超えた宇宙の真理を聞かせて頂くことであります。親鸞聖人は、
「念仏を申すことは十声一声 聞く人疑うこころ、一念もなければ実報土へうまるるともうすこころなり」一念多念文意
と言われました。念仏を申すこととは、「念仏してくれ」という仏様の願いを聞くことであります。仏様の名告り(南無阿弥陀仏)を通して、本当のことが出来ない、本当のことを知らない、わからない、何事においても本当の満足ができない私たちを救わんが為の願いであります。
しかしながら私たちの願いといいますと、常に子供のため、親のため、会社のため、自分自身の為、私の理性を満足させる為の願いばかりであると思います。人生の中で、全てのことがだいたい満足している我が身でありますが、その中にどうしても割り切れない願いがあります。
その願いを目覚めさしてくれるのが、「疑う」ということなのではないでしょうか。本願を聞くことは、私の能力や知識で超えた究極の願いを、伝えずにはおれない仏さまの願いなのであります。
仏の教えを疑わずにおれないその心が、実は仏が私を呼び覚ましてくれる仏の願いであり、その呼び覚ます名告りを聞くことなのでありましょう。「疑う」とは、本当のことが知りたいことであり、疑って疑って疑い抜くことによって、本当のことが出来ないという自分に目覚め、初めて仏様に任せる智慧=信を頂くのではないでしょうか。
「疑う」とは、本当のことが知りたいことであり、疑って疑って疑い抜くことによって・・・≫住職の頭の中には「疑う」という行動の本意がしっかり述べられていて、非常に分かりやすかったですね。なかなか疑うことは拭いきれませんが、いつか「疑うこころなき」聞を頂ければと願っております。
それでは、失礼します。
南無阿弥陀仏 高山信雄

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