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真宗高田派久遠寺ブログ  『シュリハンダカ』

愛知県名古屋市中区にある真宗高田派久遠寺の日常をお伝えします!

 

寺の掲示板 平成23年2月23日掲載 


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「浄土は私がつくるものじゃない 地獄は私どもがつくるのである」正親含英師



住職似顔絵
地獄とは、生きている時の罪の深さによって、その報いを受けねばならないと教えられています。日頃、正しい行いをしていて、人様に迷惑をかけてはいないという自分の思いでいますが、果たしてそうでしょうか。

私たちは、あらゆる関わりで心配をかけ、迷惑をかけている存在であります。また自分の思い通りでしか自分の立場を考えられず、その結果自分に縛られているのではないでしょうか。ですから、自分の思いが自分の苦しみとなり、苦しみを作っていると思います。
地獄とは、ケモノとイヌが一本の杭に繋がれ吠えている姿で、自在がきかない、というのが地獄であると教えられています。地獄はない、自分の思いで作り出しているのです。

それとは違い、お浄土は無疑であります。それは、疑いのない事実に出遇うことができるからです。しかし、不疑はお浄土を信じることもあれば、時によって信じない時もあります。つまり、自分自身で清浄なる土を見失っているのです。土とは「土を踏みしめる」、身を摂する所以の感動を表す言葉なのです。
大空のように広く、いつでもどこでも誰にでも差別なく平等なる世界が人間の根源的な願いであると、仏様は教えを通して教えて下さるのです。ですから、お浄土は私自身が作るものではないのです。

念仏は浄土に生まれる為か、地獄に落ちる業かは存知しません。親鸞聖人は「たとえ法然に騙されて念仏した結果、地獄に落ちても決して後悔はしない」と断言しておられます。なぜかと申しますと、私どもはもともといずれの行もおよびがたき身(私)なのでありますから。                   

合掌
久遠寺住職 山元智



親鸞聖人が「たとえ法然に騙されて念仏した結果、地獄に落ちても決して後悔はしない」と言われた法然上人への信用・信頼は並大抵のことではありませんね。ですが私たちもとても信頼している家族、もしくは先輩・友人の言葉ならそう思えるかもしれません。
また御書という書物にもこうあります。「お念仏候べしこの身は今は年きわまりて候へば定めて先立ちて往生し候はんずれば浄土にて必ず必ず待ち参らせて候べし」と仰って下さっています。先に往生して必ず待っているぞ!との誓いは何にもかえ難い安心ですよね。有難いことです。
そうなると私たちはただただお念仏をして、この身を取り巻く阿弥陀様やご聖人の御心に感謝するのみなのですね



それでは、失礼します。

南無阿弥陀仏 高山信雄

Category: 寺の掲示板

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